スイッチ

MIU404の最終回を観た。すでに多くの人が言及していることと大いに重複する内容であるけれども、思ったことを記しておきたかったから書く。

 

夢オチだと言われていること(そしてそれゆえに残念だと言われていること)についてだが、重箱の隅をつつくような言い方をすれば、あれは夢”オチ”ではない。強引な辻褄合わせで”最後の最後に"無理矢理持ってこられたものでもないし(夢が覚めるのは回の中盤から後半にかけて)、2019年10月16日00:00:00から時間の動かない時計がデカデカと抜かれていて、むしろ「これは夢(ないしは平行世界)ですよ」と懇切丁寧に説明してもらっている感すらあった。

 

むしろ重要なのは、禁じ手ともいわれる夢手法をあえて用いたのはなぜなのか、という点を考えることにあるように思う。その答えは「ほんの一つのきっかけ(スイッチ)で、夢で描かれた展開が現実になっていてもおかしくはなかった」という提示なのではないだろうか。そしてそれは、この作品に通底するテーマとして描かれていた「分岐」に帰結するのではないだろうか。

 

清く正しく人間らしく見えるよう振舞うことに膿んでいた志摩は、せっかく手にした「相棒を信じる」ことを手放した結果殺させる。陣馬の仇や相棒に捨てられた感情にまかせて単独行動に出た伊吹は、その結果として相棒を失い、久住も殺めてしまう。夢の出来事は、それまでの二人の行動に導かれた当然の結果といってもよかった。でも、陣馬が目を覚ましたこと、九重がそれを連絡したことがスイッチになって現実の未来は変わった。

 

皆どんなスイッチに邂逅してきたのだろう?各話に登場した犯人のほとんどは、それぞれに逃れられない苦悩があって、袋小路になって罪を犯してしまった。彼ら彼女らの物語は僕らの生活や身近な人、なんなら自分自身とさえも隣り合わせで、誰と出会うか、どんな選択をするかが違っていれば、自分が罪を犯したり破滅したりしていたかもしれない。8話の蒲郡の回でアンナチュラルのUDIラボが登場したのは、単なるファンサービスでのハイパーリンクではなく、蒲郡と中堂という、最愛の人を殺されて復讐心に駆られる二人の人物同士の対比があったのだと解釈している。

 

だから久住という人物とそれを演じた菅田将暉へは、畏怖にも似た得も言われぬ感情を抱いた。全編を通して彼の背景は全く語られなかった。あれだけ静かに狂っているのに、なぜあんなにも寂しそうなのだろうか。勾留された久住は完全黙秘を貫いた。あれだけ人をダシしながら、しかし彼もまた蒲郡同様、覚悟を決めてその道を選んだということなのだろう。「俺は、お前たちの物語にはならない」と彼は言った。物語を介しての丁寧な人物描写(しかもエンタメとしてのテンポの良さと両立させながら)を一貫していた制作チームが、この台詞を久住に言わせたという強烈な自家撞着。そしてそういうメタの矛盾も全て内包して体現した、菅田将暉の芝居は本当に凄かった。逆説的に、視聴者から一切の同情もされず、「そらこいつは犯罪とかするやろ」と何の疑いも持たせなかった3話の岡崎体育は、その特異性を存分に際立たせることになった。体育くん、今後芝居の仕事増えるんとちゃうかな。

 

無数のスイッチはどこかで繋がっている。404の二人を救った九重の連絡も、それまでの4機捜の日々が手繰り寄せた必然だったともいえるだろう。「毎日が選択の連続。また間違えるかもな。…まあ間違えても、ここからか」とは最後の志摩の台詞。同じく野木先生脚本、獣になれない私たちの最終回で晶が言った「鮮やかには変われなくても、ちょっとずつ変わっていって、苦くなくなるんだよ」とも通ずる部分があるように思う。続けることで救われることもある。誰かを救うことだってある。軽やかにしなやかに、日々の小さな選択と変化を肯定的に受け入れていきたい。

 

 

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作中で伊吹が履いていたランニングシューズは、ヴェイパーフライやアルファフライといったNIKE Zoomシリーズの最新鋭のもの。一方僕がランニングのときに履いているFree5.0は、持ち主のランニング無精に起因する過保護運用の甲斐もあって、もうかれこれ10年選手になる。この10年の間に僕はどんなスイッチに邂逅し、どんな選択をしてきたのだろう。誰かにとってのどんなスイッチになったのだろう。