手放せば

12月は違和感の月だった。
久しぶりに変えた髪型に始まり、そのセットの仕方や使う整髪剤の選定に四苦八苦したり、初めての人と会う機会が多かったり。満を持して買った洋服が微妙にイメージと違ったり、それのサイズ違いを手配してもやっぱり合わなかったり。家の生活動線にさえ違和感を覚えるようになり、家事もいつもより時間が掛かったり、そもそも手に付かなかったりもした。
 
 
 
そんな日々のなか、先述したように初めての人と会う機会も多かったのだけれど、そのなかでとても不思議な方と出会った。すべてを受け入れる柔軟性を持った人。あるいは語弊を恐れずにいえば、すべてを飲み込んでしまうブラックホールのような人。
 
僕は安直なカテゴライズで人をラベリングすることが、あるいは「分断することが」と表現してもいいかもしれない、人を識別するそういう方法論が好きではない。しかし矛盾するようだが、人と関わっていくとき、その人を知ろうとするときに、僕は類推を多用する。その人のプロフィールや佇まい、受け答えの内容、その仕方を、今まで出会った実在/非実在の人物と照合しながら、「こういうところは似ているかも」「ここは違うと思う」というふうに判定しながら、その人の人物像を自分なりにあぶりだしていく。会話は、照射した光線が反射して、何色の光が返ってくるのかを確かめることに似ている部分がある。十数年、数十年生きてきた人は、たとえどれだけ無垢な人でも、ものごとの受け取り方にやはり何らかの癖があるからだ。
 
しかし、その人はすべてを柔らかく受け容れる人だった。照射した光線がすべて吸収されて、返ってきたものが目に見えない。僕は焦った。見透かされているような気がしたからだ。先述したように、僕は安直なカテゴライズで人をラベリングすることが好きではない。だから、人となりを類推していくなかでも「あーなるほどこういう人ね」と途中でわかった気になって止めてしまうことのないよう、常日頃から自分を戒めているようにしている。止めてしまった時点でそれはカテゴライズになるからだ。大小さまざまな似ている/似ていないの先にある、その人の固有性にたどり着くまでこの営みは止めてはいけない。したがってそれはつまり、その営みはずっと続くということでもある。その人の本当の固有性になど、他人がたどり着くことは不可能だからだ。しかしながら、気がつくと疑念は常に傍らにいる。結局カテゴライズしている連中と自分は同じ穴のムジナなのではないか?この疑念をその人に見透かされたような心持ちになった。
 
実際多分、その人は僕の自家撞着に気づいたのだと思う。でもそれは、その人にとっては「見透かした」のではなく「受け取った」に過ぎないのだと思う。「嘘つきはいけない」という一般論を諭されている場でばつが悪いのは嘘つきだけであるのと同じで、「見透かされた」と感じているのは僕だけなのだろう。
 
ではその人は能天気なのか?いやいやそうではない。ちゃんと視ている。ちゃんと解っている。ならばその人はどうやって解っているのだろう?しかも僕とは違うやり方で。その人のもう一つのキーワードは「執着のなさ」にあるように思う。力みがまったくない。眼前にあるものをそのまま受け容れる感覚なのだろうか?「解る」という感覚さえも手放しているように思えた。そういうと「無知の知」を想起するが、禅問答のようだけれど、「無知の知」さえも手放す感覚なのかもしれない。
 
 
 
そんなことを考えながら引き続き違和感だらけの師走を駆け抜けた。違和感と自分が心地よいと思うこととのズレ、そこを埋めようと小さな抗いを重ねた日々。ふと唐突に、それらを全部飲み込んで「まあなんでもいいか」と思うに至ったら、最後の最後、その開けた懐にすっと光が飛び込んできた。
 
何年か前の年末にも「もっと身軽になりたい」というようなことを書いたように思う。来年は触れるものが今まで以上に増えるだろう。しかしそれでも今よりももっと身軽に"なれる"。そんな確信めいた予感がある。まだまだやれる。
 

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