4月が終わる。「花見は来年だね」だなんて昨年言っていたことさえも実感が持てなくなるぐらい、かつては良くも悪くも興奮をもたらしていた感染症の災禍も、緩慢な不幸として日常に溶け込んでしまった。

 

神田にとある小さな公園がある。日差しは届くのにどこか辛気臭い影がへばりついていて、その狭さと相まって不思議な安心感をもたらしてくれる場所だ。そしてその公園には一本のソメイヨシノが植わっている。ただその桜は、その存在感で空間を支配するような巨木でもなければ、生命の灯火を感じさせるような若木でもない。大きくも小さくもない、本当に凡庸な桜である。狭くて妙に陰鬱な公園、そこから北西の方向を見上げると、これということのないソメイヨシノ越しに、公園の暗さに一役買っているビルの影と、対象的に抜けるような青空が一緒に視界に収まる。僕はこの何の変哲もない、しかし絶妙なバランスで成り立っている光景が好きだった。

 

今となってはもうこの光景を見ることはできない。隣に神田警察署の新庁舎が建設されて空は塞がれてしまい、またその際に桜の枝もいくばくか伐採されてしまったからだ。警察署の竣工自体は最近のことだが、この光景が失われたのは工期の途中で、それからもう2年ほど経っているはずだ。

 

この1年で"変化"が大きく取り沙汰されるようになった。たしかに、変わった人、変えられざるを得なかった人の数は多かっただろうし、その変わり方もまた尋常でなかっただろう。それらが些細なことだとは毛頭思っていない。しかし、変化は僕たちがこれまでも見過ごしてきた生活のなかに常にあって、これからもまたあり続けるものだ。それを無責任にある種の娯楽として消費する姿勢は、やがて手痛いしっぺ返しを招くものであるように感じている。

 

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