第三の"憶えていない"について

10日前の日曜は14時から24時までオンラインでずっと飲んでいた。18時頃までは5人でお絵かきクイズをして遊び、その5人の内2人を占める夫婦が子供の入浴のために抜けてからは、残った3人で色んな話をした。……色んな話をしたように思う。
 
わざわざ記述しなおしたのは、とりもなおさずその夜のことをあまりよく憶えていないからだ。そしてこの"憶えていない"、普段の"憶えていない"とは違う妙な質感を持っていて、この数日間はその正体について考えるでもなく考えていた。
 
まず、その正体は"記憶を飛ばす"ではない。たしかにあの日は相当な量の酒を飲んでいた。しかしあの日の"憶えていない"は、記憶を飛ばしたときの、一定区画の記憶がスコーンと抜けているような類のものではなかった。会話の温度感や手触りは確かに実感として今も残っている。
 
次に、"記憶に定着しない"とも違う。日々のどうでもいいような記憶はどんどん抹消されていくが、あの日の会話は、funやfunnyの意味でもinterestingの意味でもとても面白かったから、記憶に定着するためのフックは十分すぎるほど備わっていたはずである。また、近い感覚でいえば、生産性皆無の会話が繰り広げられる会合なんかは「何喋ったか憶えてないけどめっちゃ楽しかった」と、その重要性の乏しさゆえ、意味的価値が削ぎ落とされた状態で記憶に留まるが、あの日の楽しさはやはりfun/funnyだけのものではなかったから、「意味的価値のみが削ぎ落とされた」という意味での、広義の"記憶に定着しない"とも違う。
 
ならばあの日の"憶えていない"を表現する言葉はなにか?きっとそれは"記憶の圧縮"だと思う。マラソンにしろ勉強にしろアルコール摂取にしろ、なにごともキャパとペース配分というものからは逃れられない。あの日10時間ぶっとおしで面白かった/楽しかったという感情的・理性的情報の洪水を、しかも相当量のアルコールをぶち込まれた脳髄で処理するのはあまりに荷が重すぎた。結果、著しく解像度を落とした状態で脳に格納したといった具合だ。我ながらこの"圧縮"という表現がしっくりきているのは、後から当事者同士で「だってあのときさ〜」などと"解凍"のトリガーが引かれたときには、みるみる記憶が蘇る手応えしかないからである。
 
思い返せば、頻度はそう多くないが、この日以外にも"記憶の圧縮"は折にふれて発生している。「情報量多い・ガッツリ飲酒・でもひとときも忘れたくない」の三拍子でいえば、フジロックの参加者なんかは結構その会期中の"記憶の圧縮"を体験している人も多いのではなかろうか。
 
しかしまあ、留めておきたい記憶が多すぎるがゆえに、それらの記憶の全体にモヤがかかるというのは少々皮肉でもある。それだけ留めておきたい記憶は、おそらく細部にこそその真髄が宿っているだろうからだ。とはいえ、記憶は忘却を挟みつつも堆積していくものである。アナロジーと見せかけての牽強付会甚だしいが、地層における化石燃料よろしく、圧縮された記憶は、他の記憶によるさらなる圧縮と分離を受けて、時を経たあとに違うかたちで気づきをもたらしてくれるのではないか。そんなことをほのかに期待していたりもする。
 

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相当数が"記憶の圧縮"に遭っているだろうと想定される人々@フジロックOASISエリア