調和と共存

少し前に3回目のコロナワクチンを打ったときのこと。

 

その頃はまだ少し寒いぐらいの穏やかな季節で、よく晴れた平日の午前中に半年休をとってワクチンを打った。午後からは在宅勤務で働いたが、もともと逼迫したタスクの残り具合だったことに加えて急遽ねじこんだ半年休だったこともあり、少しばかり遅い時間まで働いていた。勤務終了後はワクチンの副反応がいつ出るかもわからなかったこともあり、急いで食事や入浴を済ませ、22時頃には寝床についていたように記憶している。注射を打たれた腕にほのかな痛みを感じる以外はいたって体調も良好で、そのまま副反応の辛さを感じる前に入眠できるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間、22時過ぎから徐々に倦怠感が強くなって入眠は失敗に終わり、23時半を回ったあたりで強烈な悪寒とともに体温は39度近くまで上昇。どれだけ厚着をしようと、どれだけ真冬の寝具を引っ張り出してきて身体に重ねようと、歯がガタガタ震えるのを止めることはできなかった。

 

正常な判断能力を失いつつあるなか、しかしそこではたと気づくことがあった。それは「身体がこの副反応を、あるいはその源泉たるワクチンを異物として拒否しているから辛いのではないか」「であるならば『調和』『共存』、そのような概念を想起してみてはどうか」「つまりはワクチンを身体の奥まで、身体の隅々まで行き渡らせ、しかしながらそれに飲まれる事は決して無く、懐深く受け入れることをイメージしてはどうか」といったものであった。そのようなことを意識して呼吸を深くしたら、けたたましく歯を鳴らすような悪寒も随分と和らいだ気がしたし、その後穏やかに眠ることができたような記憶がある。

 

思えば、2020年にこのパンデミックが発生した時から、大小様々な境界を作ることに、世界の誰もが、そして自分自身も躍起になっていたような気がする。国同士の行き来が封じられ、県境をまたぐ移動も制限されて故郷にも帰れなくなった。自分の生活の半径に目を遣っても、マスク、手指のアルコール消毒、ソーシャルディスタンス、アクリルのパーテーションと、有形無形の壁をいくつも作り、ウイルスを繁殖させないことが生活の目的かつ手段になった。もちろん、じゃあ今からマスクをやめようだとか、何も考えずに生活しようと言うことでは全くない。けれども、サイエンス・フィクションにおいて無菌室に住んでいる登場人物が貧弱になっていくように、徹底的に境界線を引き、自他を峻別していく生き方はやがて何らかのかたちで破綻を迎えるような気がしている。

 

境界は曖昧に、何かは私の中に、私は何かの中に、共存し調和していくことが自然本来なのではないかと思う。時間はかかるかもしれないが、世界が、あるいは変わったあとの世界のなかにおいても自分は、そのような外部との関わり方を持てるように戻っていきたい。眠れるような、しかし眠るには少々しんどいようなワクチンの副反応のなかで、まどろみながらそんなことを考えていた。