座禅と言語

久しぶりにまとまった文章を書こうと思ってブログを開いた。ついでに片手で数えるほどしかない過去の自分の記事を読んでみたが、まあ剥き出しで稚拙な文章だなと、我ながら苦笑してしまった。しかしブログのタイトルで示しているとおり、その稚拙さを残したいという気持ちもあるからこういう書き方をしているのだし、こういった文章に対して恥ずかしさではなく、懐かしさや慈しむような感情をが湧き上がってくることに、老いを感じつつも、こういった思いの丈を記録しておいてよかったとも思っている。

 

なぜ冒頭にこんな回りくどいことを書いているかというと、この記事は予め人に見せることを想定して書き始めたものだからだ。もっともこれまでの記事も、あわよくば誰かの目に触れてほしいという身勝手な承認欲求の発露として書かれたものではあったが、初めから誰かに見てもらう前提のそれとは、文章の強度も緊張感も違う。これまでの、脆くいながら純度の高い文章も、上述のとおり気に入ってはいるが、一度この新しい空気を入れてしまうともう元には戻れない。けれどもこの変化を自分自身もまた求めていたように感じるし、この変化を純粋に楽しんで受け入れたいと思う。

 

閑話休題

 

友人の案内で、先月、Zoomによるオンラインでの座禅体験に参加した。一見すると悪趣味なオカルトオンライン飲みのようだが、いたって真面目な催しである。会の名は「【坐禅で座談会】体験を言語化する」というもので、具体的には、

・座禅の簡単な説明

・Zoom越しのお坊さんをお手本に座禅を実践

・感じたことや疑問点をディスカッション

というものだった。

 

僕自身、これまでの色んな経験や文脈のもとで瞑想もどきを実践していたが、想像していた座禅、「ほぼ瞑想」と認識していた座禅とは色んな違いがあった。が、その点については割愛し、今回は、他の参加者の方が抱いた疑問・違和感と、会の名にも冠されている「言語化」について、僕なりに言及したいと思う。

 

日にちも経ってしまったのでやや曖昧ではあるが、座禅体験後のディスカッションで他の方が出された(感想を含む)疑問点のうち、僕の印象に強く残っているは次の2つだ。

・座禅をする目的は何なのだろうか?よく言われるように「悟り」を得ることなのだろうか?あるいは、私は座禅をすることで脳が非常に安らいだ感覚があったが、こういったリラックス効果を得ることなのだろうか?

・(西洋)心理学ではその手法に段階ごとのプロセスがあるが、初心者に座禅を修得してもらうにあたっても、ステップ(=境地ごとのプロセス)を踏んだほうがいいのではないか?

 

この両質問のそれぞれに対し、主催者の一人であるお坊さんが回答をされていたが、

「座禅の

・手段/目的

・初歩/到達点

は、いわばコインの表裏のように、どちらが先立つと分けられるものではない」

という旨のことを、色んな角度から伝ようとするも、苦慮されている様子だった。

 

お坊さんの説明はまさに禅問答といった感ではあるが、これを紐解く鍵は、いみじくも会の名にも冠されている「言語」にあると僕は思っている。

 

ざっと検索してもヒットせず、それを誰かから教えてもらったのか、あるいは不意に自分で気付いたのか、もはや定かでないのだが、「言葉」の機能のひとつとして「"事"を"分ける"」というものがあると僕は思っている。たとえば、日本語の「水」と「湯」に該当する英語はいずれも「water」であり、かりに「cold water」「warm water」「hot water」と修飾したとしても、「冷たい水」「ぬるい水」「ぬるい湯」「熱い湯」のほうが細かく事象を分けられていて、”この例えの限り”においては、英語より日本語のほうが水の状態を細かく補足できている。

 

僕はこれを「(捉える世界の)解像度」という言葉で表現していて、つまりどれだけ世界をありありと捉えることができるか、ということなのだけれど、この解像度は言葉をどれだけ知っていたり、言葉をどれだけ使いこなせるかということに、かなり影響を受けると個人的に考えている。日本語よりも「水」や「湯」を表す言葉が細かい言語はあるかもしれないが、「沸騰しかけている湯」と「少しぐらいは手を浸せる湯」、「キンキンの水」と「夏のプールの水」というような具合で、日本語による「事分け」でもそれらの言語に肉薄、あるいは言語の習熟度合いでは、それらの言語よりもより高い解像度で、水の状態を捉えることができるだろう。

 

しかしながら、どれだけ、分ける言葉と分けられる世界とに対してつぶさに向き合っても、あるいは一見矛盾するようにも感じるが、むしろつぶさに向き合えば向き合うほど、「分ける言葉」≒「境界の基準」が恣意的かつ単視点的であるということに気付く。上述の例をただ逆さまになぞるだけなのだが、液体状態のH2Oをどれだけ細分化してありありと捉えようとも、それが液体状態のH2Oであるという事実からは逸脱できないのである。

 

2017年の夏にニューヨークのメトロポリタン美術館で、コムデギャルソン・川久保玲の特別展 “Rei Kawakubo / Comme des Garcons Art of the In-Between” を観た。この展覧で一番印象に残っているのが、”Birth / Marriage / Death”というテーマの区画で飾られていた、真っ黒なウエディングドレスだ。吸い込まれるほど綺麗だった。綺麗ではあったが、しかしその引力は造形の美しさに由来するものではないことに後から気付いた。そのドレスは、文字通り”Birth / Marriage / Death”のどれでもある、しかしどれでもない一着だった。花のような可憐な陰影は、胎児のエコー写真のようでもあり、棺に納まった老人の顔の皺のようでもあった。レースなどの精緻な素材遣いで立ち現れた表面は、瑞々しい産毛のようでもあり、枯れ果てた縮れ毛のようでもあった。僕がこの洋服に釘付けになったのは、本来相反するとされる生と死が見事に共存していて、そしてそれを可能にする作品自体の強度と相まって、ある種の凄みを纏っていたからである。その強烈な死生観に当てられて、僕はその場で少し具合が悪くなったのを今でもよく憶えている。

 

僕がこのウエディングドレスから「生と死」の両方を強く感じ取れたのも、実は当然といえば当然で、この展覧は”In-Between”というタイトルからもわかるとおり、「間」あるいは「無」という概念が川久保玲のファッションの核心にあると謳っている。ギャルソンは(ヨウジヤマモトらと並んで)当時を席巻していたファッションへのアンチテーゼとして語られることが多いが、川久保玲のファッションは既存のファッションと反対のことをするのではなく、本来は相反する概念同士の「あいだ」にある領域を具現化することでファッションを再定義していったのだという。僕は仏教や禅については素人だが、「間」「無」「空」という概念が(西洋宗教との対比において、という文脈なのかもしれないが)仏教を理解するうえでの勘所だという話はよく聞く。

 

ものごとを理解したり共有したりするとき、人はことばを使う。今回の座禅体験でも言語化することをひとつのゴールとしていた。だが、言語による理解・共有は、特に意識しなければ「事を分ける」方向に働くため、頑張って言語化を試みるほど、曖昧なもの、分けられないものへの理解から遠ざかっていく。しかし、水と湯の境界線が曖昧であることはそれなりに多くの人が実感はできるだろうし、一見反対の場所に位置する生と死も、生の縁と死の縁が繋がっている感覚や、死に触れたり死を強く意識することで、生を強く感じられるという感覚は、少なくない人が持っているのではないだろうか。断絶した二項対立や因果関係で捉えている事象を、こんな風にして曖昧に繋げてみたり、いっそのこと概念同士を近接させてみたりすれば、仏教的な感覚に近付けるのではないだろうか。

 

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写真が文中で言及したウエディングドレス。2015AWの作品らしい。撮影可ではあったが、カシャカシャ鳴らすのが憚られて音のしないカメラで撮ったため、画質が悪い。