二人前

コンビニにて。

ひとりで暴飲暴食をしたいがために買った2パックの餃子。

リスク回避を目的とした単なるマニュアル対応でしかないのだとは思うが、

割り箸が2膳入っていることで、勝手に少し救われた。

もしあのときのレジ前の自分が、待っている誰かのために、

雨の中二人分の餃子を買っているように見えていたのだとしたら、

まだ大丈夫な気がする。

 

随分と久しぶりに、「人の悩みを聞きたい」と思った。

かつては自分が悩んでいるときほど、

人の悩みを聞きたいと思っていたような気がする。

自分が悩んでいるときに人の悩みを聞きたがる理由はおそらく次の3つだ。

 

・相手に信頼され、相手の役に立てていると思える

・人の悩みに比べて自分の悩みは小さいと思える

・人の悩みに接したときの客観的な視点を、

 そのまま自分の悩みへの洞察に持ち込める

 

あの頃は都合よくというべきか、自分が何か悩んでいるタイミングで、

ありがたいことに相談を持ちかけてもらえていたことを思い出す。

相談してくれる人に自分自身が救われていた。

最近はなにかこう、結果報告や決意表明にしか立ち会えていないような感覚がある。

 

みんな大人になって、悩みとの折り合いをつけるのが上手くなったのだろうか?

悩みを打ち明けてくれるような友人が離れていってしまったのだろうか?

悩みを打ち明けてくれるような友人から、自分が離れてしまったのだろうか?

あるいは、人の悩みを悩みと思えないほどに、

自分の中の何かが鈍麻してしまったのだろうか?

 

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燻金

幸いにして、いまのところ友人といえるほど近しい人にはいないが、

ぽつぽつと知っている人が心を病むのを目の当たりしたり、聞いたりすることがある。

その度に、自分は仕事できついときに、死にたいではなく殺すぞと思える

メンタルで本当によかったと思う。

 

日経ビジネスソニー平井会長の記事に記された

彼の出自への言及には、大いに心が震えた。

平井氏のような戦後間もない時代でも、

思春期での頻繁な国際間の往来ではなかったが、

それでも二十数年前といえば、欧米での日本への差別も、

日本での帰国子女への半ば畏怖めいた忌避の色も、今よりずっと強かった。

 

ソニー 平井一夫会長#1 「傍流」だからこそ強い:日経ビジネス電子版

 

ハーフやクォーターの芸能人のことを

「素敵」だの「憧れる」だの言っているあいつらが、

小学校のときに帰国子女の俺や欧米風な容貌の彼を「ガイジン」と

からかっていた事実を俺はずっと憶えているからな。

 

帰国子女に対して「英語が喋れていいな」「羨ましい」などとのたまう連中も、

幼少期での居場所の喪失やアイデンティティの撹乱による孤独と恐怖、

それを再獲得・再構築していくための困難になど、露ほども思いが及んでいない。

 

結局のところ連中はみな、想像力を著しく欠き、

自らの発言に責任を負っていないのである。

 

能力の欠如は仕事に支障をきたすことがあっても、

他人に害を与えるほどのことにはならないと思っている。

仕事において他人に害を与えるのは、やはり想像力と責任感の欠如だ。

適当なことを言っている連中に対していつか見ておけと念じながら、

今日も酒を煽って床につく。

年末年始に飲んだ酒

四月に入りはや一週間。夏を予感させる暑さがあったかと思えば、

一昨日などは外套を引っ張り出さねば出かけられないほど寒かった。

うららかなイメージが強い春にありながら「春は暴力的だ」と云った知人がいたが、

なるほど言い得て妙なのかもしれない。

たしかに、何かと忙しないがためについ忘れてしまいがちだが、

春の気候はずっとこんな感じであったようにも思う。

 

寒の戻りに触れてこの冬のことを思い出すなどした。

この冬は猛烈な早さで去っていった感がある。

加齢のせいにしてしまうのは簡単だが、

冬に対して自分の中でひとつ区切りをつけずにダラダラここまで

きたということも多分に影響しているように思う。

 

整理し清算することは、過去をしっかりと過去とするための目に見えない儀式だ。

しかし人々が今躍起になっている「記録」という行為は、

緩慢な現在を薄く引き延ばすことに成り下がってはいないか。

その人々のなかには無論僕も含まれる。

 

年末年始に飲んだ酒

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01

開設した。

タイミングのキリも悪ければ記すことの意味なんてないのだろうけれど、そんなことはきっとどうでもいいのだ。

身勝手な言葉は誰の目にも触れないような場所に書き残すべきものだけれど、人目に触れられてこそ報われる言葉もあると信じている。

 

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年末は神戸に滞在した。見知った場所、見知った人に触れるとき、色んな思いが去来する。

 

神戸の海を見ながら思いを馳せたのは、海とは反対に位置する山の、そのまた向こうにある高校で過ごした日々。

最後まで辞めなかった地獄のような部活動は、しかしながら胸を張って“やり抜いた”といえるだろうか。

根性論はそれ単体だけでは何の意味ももたない。

しっかり考えながらやり抜いていれば、何かが変わっただろうか。

しっかり考えた結果部活を辞めていれば、何かが変わっただろうか。

あの頃の馬力が今あれば、何かを変えられるだろうか。

 

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今年はたくさん手に入れた。

抱えきれなくなったとも思う。

来年はもっと身軽になりたい。